昭和43年03月23日 朝の御理解



 天地の親神様が、教祖の神様にご依頼になった。御頼みになった。世間になんぼうも難儀な氏子があり、取り次ぎ助けてやってくれという、天地の親神様が金光大神にお願いをなさった。金光大神がそれをお受けになられた。天地の親神様が御頼みになったからというて、教祖の神様がはい承知致しましたと、言われただけではなくて、それからのご精進が、人が助かる事になる、元になるのですね。
 私は神様から頼まれとうとじゃから、ただ取り次いでさえやれば、難儀な氏子が助かる、というのじゃなくて、そこからいわゆる金光大神の、ご修行というか御苦労が始まった。これはあの私共の場合でも同じ事。私共に人を助ける力も何もありゃしないのでございますけれども、神様がお前の取次ぎで、たとえそのどういう難病でも、例えば身が腐っていくような病気でも、お前の取次ぎで助かると仰る。助けてやれとこう仰る。というてならこちらが助ける力持っておるはずはない。
 神様はそう言うて下さる。だから私がのらりくらり、しておって人が助かるはずは無い。そこから私の信心の修行の一段と、なされて初めてこん人が助かる、というおかげになってきた。もう十四、五年、ちょうど椛目の一番始めに、二階に一室ができ、一部屋ができました時でございますから、確か五年祭ぐらいですからもう十二、三年になりますでしょう。私が休ませてあのお夢の中に、三代金光様があの、あちらの御結界にお座りになっておられる。
 私は御本部参拝をしてから、ちょうどあの辺りに、まあご本部の広前のあの辺に座っておった。そしたら金光様がやんわりお立ちになってから、とこう御広前の方へ降りてみえられた。あらこちらの方へご神前がなっておるのかと私思いおった。ここで御祈念をなさるんだろうかと。じっとそこのところへちょうど私があそこへ座っておるならば、この辺のところに、その(一見、アマの羽?)んところにお座りになった。で正面を向って座られた。そして私は御祈念をなさるんだろうかとこう思うた。
 そしたらその座っておられる向きを私の方へじっとこう膝をこう向きかえられましてね、すうっとこう頭を下げられるのですよ。もう私はもう身が震うように感動してですね、もう勿体無い、勿体無いというて、その感泣をし私がその夢の中で、その泣いていますもんですから、隣におりました部屋におった母がびっくりしてから、先生どうかしたつかどうかしたつかというて起こされて目が覚めた。まさしく三代金光様が、私のような者に手をついて願うておられる。
 勿論その当時私が教師資格を持たないから、信者としての信者としての格ですけれども、取次ぎを許されて、ですからこのお広前の方をお使いになったのである。そん時悟らせて貰ったんですけれどもね、その様な事があったね。私は金光様から手をついて頼まれた。というて私がね信心を疎かにしておったんでは人は助からない。もうそれこそ金光様に頼まれておる、金光様に願われておる。そんなら私の様な者でもお役に立つのなら、どうでもお役に使うて頂きたいという願いが、もう一段とこう燃えたという。
 金光様が願うておいでられる。しかも私にいわば頼むといわんばかりに手をついておられる。だから私は発奮した。いよいよ尚更に発奮した。私はこの辺の所がですね、大事だと思うのです。どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよと、天地の親神様が言うておられるね、そこでそんならそれはどう言う事になるかというと、まその金光様が私に対してどういうお態度をお取りになったかと言う事である。月々御本部参拝をさせて頂きましたが、もうそれこそ私共あの御結界にお届けを致します。
 もうそれこそほんの私の前の方まではニコニコとしてお取次ぎなさっておられるかと思うと、私の番になったら、もう本当に厳しい厳しい顔をなさいました。もう身が縮むような思いでございました。これはお粗末御無礼があるからじゃろうかと心にも思わせていただいて、お粗末御無礼があるところは、もう平に平にお詫びをさせていただいた。けれども分からせて頂いた事はですね、例えていうならば、これは俳聖と言われた、その芭蕉というね、俳句のいわば巨匠がおられましたですね、江戸時代に。
 なかなかのやはり名人でしたんですね。晩年には諸国を廻られて、諸国行脚の旅に出られて、俳句の旅に出られた。というほどの、まあ俳句というものを聖なる物にまで高められた方なんですね。その人がその言うておられます。俳句の中から伺われますね、「この道を来る人もなし秋の暮れ」俳句というものはただ、遊び半分のてなぐさみ的なものではない。俳句の精神というものはこう言う様なものだと。ところがほとんどの人が、ちょっと俳句の句一つも作れるようになるとそれでやめてしまう。
 それから精進しようとしない。本当にこの道というものはこんなに深く広いのだけれども、この道を来る者がないと、その秋の寂しさを自分の心の寂しさに、表現しておられるのでございます。ですからもしですね、その芭蕉の弟子になった人がですね、大体のところまで俳句の味わいというものを味わいもできよう、覚えもしてですそれでもなおかつ、どうぞあなたの進んでおられるところの、あなたの深いその句の道に、ところまで自分も勉強したい極めたいというてついていくならです。
 喜ばれるだけではなくて、同時にそう言う事でいくもんか、そう言う事で良い句が作れるかというて厳しゅう教えられるに違いないですね、実はどうぞというて頼まれておってもですね、こちらが本気でなら修行させてもらおう、本気で信心させて頂こうという事になったらねそれはやはり、師匠と弟子のそれと同じようにですね、今ごろはこげな仕事を覚えようというものもない。ほんにこちらが手をついてから、この仕事だけはいっちょ覚えてくれと言いたいごとある。
 ところがならその中にです、一人ならあなたの仕事を覚えさせてください、教えてくださいと、というて来る弟子があるならば、ああそうかそりゃうれしかったと言うて、ニコニコとばっかりしてから教えられたはずがない。本当に私のものをあんたが受け取ってくれるなら、私が極めておるところまでみんなが勉強しようと思うなら、どうぞ受けてくださいよ、そのかわりにね、厳しく鍛えるところは鍛える、教えるところは教えるよと。と言う事になってくるのはやはり当たり前ですね。
 どうぞ信心しておかげを受けてくれよと神様が頼んでおられるね。そしてその結局信心しておかげを受けるのは氏子の方である。いよいよ今日は春の霊様のお祭りが一時から、午後の一時から奉仕されます。昨夜も御祈念の後にその事を聞いて頂いたんですけれども、ここの部落の方ですが、あそこに幸若さんと中村さん、あっ田中さんが明日の霊様のお祭りでは、あのどう言う様なものかと言う様なお伺いがあった。なるほどここにはもう教徒というて、例えば仏式なら仏式から改式をしておられる。
 教徒の方もおられる。それを教徒という。信徒というのはみなさんね。普通改式をしてなくても、やはりこうしてお参りをしておる人の事を、いわゆる信徒と言う。御信者さんといわれるね。まあここにご縁のある人達は、いわば信徒である。けれども家はやっぱ霊様は仏教で家でちゃんとしおるから、と言う様なものではない。お道の信心が分かってくればくるほどに、やはり金光大神御ひれいの、道の輝きがです、私共または私共一家だけではない、この現世だけではない、あの世におられるご先祖の方達もね。
 やはり私共が助かりたいように助かりたい御霊が沢山おられるに違いはない。その取次ぎの道の有難いものをですね、先祖の霊様にも頂いて貰おうという私は真心が必要ではなかろうかと思うです。ここでご縁を頂いておられる、まあそれこそたまに、たまぁにしか参ってこないという御信者さんの上にでも、それこそここに関わり合いのある、関係のある、もうありとあらゆる御信者の皆さんの中にね、その関わり合いのある霊様の、また関わり合いの霊様がですね。
 すべて今日の霊のいわばお慰めのお祭りを、お受けになるわけでございます。今日の御霊のお祭りを境に助かられる御霊もございましょう。今日のただ霊のお祭りに、初めて御神縁を頂かれる御霊もございましょうね、参ってすぐ助かると言う事が、例えば出来ない様にですね、やはり金光大神の道の教えというものを頂いて、そして自分の心が救われてくる。そして同時に様々な難儀な問題から助けられると言う様に、御霊のそれとても同じ事ね、御霊様達がご縁を頂かれて、そして例えば有り難い御教えを頂かれる。
 それから御霊ながらにも心を開かれる。悟りを開かれるね、そして御霊ながらも金光大神のおそば近く、お取次ぎを頂いて、いわゆる御霊の世界でも神様の世界でも、そこに自由にお取次ぎを願えれるような縁をつくってあげれると言う事なんです。ですからもう実に大事なこと。段々金光様の御信心が深く広く、いよいよ分らせて頂けば頂くほど、これはもちろん改式しなければならん、おられないでしょう。けれどもそこまでいってない人でもやはりね、自分自身がやはり取次ぎを頂いて助かっておるようにね。
 先祖の御霊もやはり取次ぎを頂いて助かる道をここに開いてあげれるという意味合いにおいてでも、今日の御霊のお祭りは大事なお祭りですね、というてまあ説明させて頂いたんですけれどね。御霊様がおられるやら、御霊様の声を聞くわけでもなからなければ、御霊様の姿を拝むわけでもないから、疑えば限りがないのでございますね。そうでしょうが。ところがです私はもういつの御霊のお祭りの場合でも、その前後に起きてくる様々な、いわば不思議なことね。
 なるほど御霊様が生きてござるなあ、なるほど神様お喜びになるなあという神様の感動を私の心に感じるのですね。昨日も私御祝詞の作成をさせてもらいよりました。下書きをさせて頂いておりますとですね、その要所、要所のその言葉の中にですね、もう私が感動すると同時にですね、もうあの祝詞の下書きをしておりますその紙のね、紙にパリパリパリパリとおいさみがつくんです。
 これは御霊の喜びやら、神様の感動やら分かりません。けれどもです確かに私共が先祖を敬うという麗しの心というものは、神様に通うことだけは間違いないのです。真心を込めてどうぞご先祖を大事にという、その心。助かってござるやら助かってござらんやら、いや、あの世があるのやら、ないのやらすらが半信半疑ね。けれども天地の親神様の信心、金光大神のお取次を頂いて、御信心をさせて頂くうちにです。
 やはり成程神様はござるなあ、神様が生きてござるなあと言う事が分かってくれば来る程に、成程これは御霊様もイキイキとした、いわゆる霊魂の世界というのがあるのだ。そのためにも、私共がいよいよ魂の清まりを願っておかなければならないなあと言う事を感じるのであるね。その魂の清まりがですね。御霊の働きの出来るできないに関わってくるのである。
 先祖を尊ぶという、これは日本の特別日本の、国民ていうか日本の人たちは、もう昔から先祖を尊ぶというふがありますね、ですからそのその尊ぶというだけではなくてですね、本当にその御霊に力を注いであげれる、御霊を助けてあげれれるね、力のない御霊に力を与える、徳のない御霊に徳を送りね、そういう道を開いてあげれれる、御霊ながらにも一段と信心の位も徳の位もついていくおかげを頂かせてもらうね。
 まあ究極はそう言う事ですけれども、まあそう言う事が分からんに致しましても、先祖を尊ぶと言う様なその心が、天地の親神様の心を動かす。神様が感動までます。お喜びになるですね、それが実をいうたら信心なのです。信心とはとにかく神様が喜んで下さり、私共もまた喜ばして頂けれる。お道の信心では真心を尊ぶ。その真心がですね。例えば亡くなられたお婆ちゃん、またはお爺ちゃん、またはお父さん、お母さんこれは一番身近な者でなからなければその感じというものはない。
 はあほんにお婆ちゃんが甘いものがお好きじゃった。お爺ちゃんはなかなかお神酒が好きじゃったからね。それが真心であるね。その真心をですたとえ御霊様が受け入れられる受け入れられないは別として、そういう真心を使うと言う事が信心なのです。だから御霊様はござらん世界と例えばしてもです、御霊様は何やらかんやら分からんにしてもです、ね、実をいうたら只今申しますように、もうあると確信しなければおられない、御霊様のお祭の前後して起きてくる事柄の中からいつもそれを感じるのです。
 まあそれは目には見えないですから、私がそれこそね。「講釈師、見て来た様にな嘘を言い」と言った様なね。句がありますでしょう。はあ地獄極楽のことを説明する、自分が地獄のこと行って見たばしのごとね。ですからそういうものが例えば、なら無いと致しましてもですね。その先祖を敬うという、その真心がですね、神様の御感動を頂く事は間違いないのです。その真心が、やはり一番自分に身近いご先祖でなからなければ、よその御霊様になどと言う事は出来ないね。その真心をお道の信心では第一と致します。
 そういう意味合いにおいても、私先祖の御霊様に奉仕をすると言う事は大事であり有り難い事であるとこう思うんだけれどもね。けれどもやっぱり、御霊様の助かりの声を聞く、助かりたい助かりたい。これはもう私が十何年も前。御霊様のお祭りを奉仕します前の日は。一晩中かかって御霊様の、昨夜もそうでございましたが。今朝方までかかりました。そして私があの、御祈念の時間までちょっと休ませて頂く。
 ちょうど椛目の御広前がここにあるならば、向こうの方に楽室があって、そこに私楽室が控えにしておった。そこに一人休ませてもらうんですよ。そしたらね、もう私が休ませて頂いたら、もうそれこそ何千何万とも、分からない人の声なんですよね。丁度あの御本部でお参りをさせてもらう時、あの何万という人が一緒に大祓いをあげるでしょうが。ばぁっとこう、大祓いの声のようにですね、もうその御霊様達のですね、もう喜びの声なんですよね。沢山の人が明日もおかげを頂かせてもらえれるという。
 その喜びの声がですね、寝ておる私に聞こえてくるんですよね。そう言う事があったんですね。ですから本当にその、御霊様のお祭りが、また他のお祭りと違って、もう一番私共に身近なお祭りである。昨日も久留米の井上さんの姉さんが四国におられます。熱心にここに信心されます。一週間ほど前にそのご主人がこちらへ帰ってみえる。というのはそのお兄さんが、もう危篤というので電報が来ておった。こちらへ着かれてからすぐお願いにみえました。
 たいへんまあ難渋な病気でございましたが、大変な苦しみであった。ところがお取次ぎを頂かれてからですね、非常に苦しみが安らいだ。もう本当におかげを頂いたというてお礼に出てこられるほどに安らがれた。が昨日一昨日亡くなられました。もう実に眠るような、その安らかなお国替えであったとこう言う。
 で昨日その兄弟して御礼に出てみえてからです、私が今日の御霊様のお祭りのことを申させてもらったんですけれども、先生今朝方お夢を頂いた言われるんです、その高松さん達がね、いうなら義理のお兄さんにあたるわけなんですね。所がその丁度あのまあ会社か何かでも行きよんなさった時の様な姿でですね、その表へ出ておられるので、兄さんあなた何処行かれるですかと言ったら、合楽の金光様へ参って来るっちいうて仰った。それがあまりにもまざまざとした、もう亡くなられた明くる日ですからねえ。
 あまりにもまざまざとしたもんですから、もう本当に気持ちが悪いごとあったね。本当に、あのもうこれは一年ぐらいも前の、このここの御造営があり始めの頃でした。してやっぱ高松からみえて、その兄さんとご一緒に日田の方へ遊びに行かれた。ここを自動車で通られた。兄さんここがあの合楽の教会ができておる所ですよと言うたらもう、自動車の窓からこう首を出してから、あのですねはあそんなら私もどうでんこうでん一辺参らせてもらおうっちいうて言いよんなさったが。
 とうとうご縁を頂かれんなりに、亡くなられる何日か前に、例えばお取次ぎを頂いてから、その方兄さんの事を願わせて頂いたが、もうすでに天地の親神様の働きというかね、御霊の願いというか、それがこう働き合いをそういうような中からでも感じんわけにはまいりませんでしょうが皆さん。そこで私がですね、昨日それでなら明日のお祭りには、どうぞご遺族の方々玉串をあげられるように、その御霊様もここにお呼びしますから、どうぞあの御霊あのお参りして下さいよと言ったところが。
 それが先生明日は丁度その早く繰り上げてですね。何とか生法事というですか、その法事をしなければなりません。しかも丁度時間が昼からの一時だと、一緒になるわけなんです。そしたら横から井上さんがですね、それでも兄さんあんたそげんみんなおんなさらんでん良かろうけん、あんただけなっと出てきて、玉串お祭りを拝んで、拝ませてもろうて頂きなさいっちいうて、言わっしゃったとたんに、カチーッとここでおいさみがあるんですけんね。
 いかにその事を神様が喜ばれるか、御霊様が喜ばれるかわからんにしてもですね。それに受けて答えるように、おかげがそういうふうにあると言う事がね。ご法事がああそうね、そんなら仕方がないて、そんならあの玉串は取っとくから、お祭りが済んでからでも良いから出てきなさいって私が言うたんです。そしたら井上さんが横からですね。兄さん、あんたご法事みんななさる事はいるまいけん、あんただけでも出てきてからお祭りを拝みなさったら、そして玉串あげなさったら。
 言う時にそのおいさみがあるからいかに、例えばそのお祭りにあわれると言う事が有り難い事かと言う事が、その意義を感じますですね。これが孫でございます、これが息子でございます。曾孫がこんなに大きくなりましたと、と例えば先祖の御霊様達にです、一家中の者があげて玉串でも奉らして頂けれる様な雰囲気。そして甘な辛なもですね、お供えでもさせて頂いてね、御霊様を真心から敬う心をこのお祭りに表していくと言う事が、いかに神様のお喜びであり、そういう情操というか、そういう心持ちがです。
 そのまま信心であると言う事なんです。今日の御霊様のお祭りを通しましてです。御霊様のお祭りを通しまして、私はそういう、信心の心というものをいよいよ一段、お互いも高めていかなければならない、御霊様もまた一段と高まった御霊としてのおかげを頂いてもらわなければなりませんね。そう言う様な事でもです、本当に天地の親神様が皆さんに、どうぞ先祖を敬うてくれよ、毎日毎日の朝に夕にこうして、皆さんに聞いてもらう御理解をです、そう言う事なんです。
 我情我欲を離れてくれよと、我情我欲を離れなければ真の道が分からんのぞと、我情我欲を離れなければ真の人間の幸せはありえないのぞと、我情のために我欲のためにお参りをしておるけれども、その我情が我欲が無くなっていく、薄らいでいくいやそうだなあとそのことに取り組ませて頂くと言う事が信心なのぞと、朝に夕に毎日毎日頂いておるという事は、それはそのまま神様が皆さんの前に手をついて、どうぞ信心になってくれよと言うておられるのでございますよ。
 からというてなら私共がです。神様が頼んでござるとじゃから、こっちの頼みも聞いてもらうと言う様なわけにはいかん。ここには信心の稽古にくる所と言われるからね。間違いやそう言う事は、間違い間違いぞと例えば私は言わなくてもお気付けならお気付けと言った様な事で現れてくるでしょうね。自分の家にね。家の上に身の上にね。神様が叩いてでも分からせようとなさるような事があるでしょうがね、神様がずうっとこうして頭下げてござるとに、頭ばたたかっしゃると言う様なもんじゃないのです。
 分からせたいばっかりにはやはり厳しい顔もしなければならんのであり、場合によっちゃあ叩きもしなければならんのであり、そこから私共が一段悟らせてもろうて、はあここが信心の道には劣っておった、信心させて頂いておってこの様な事ではいけなかったと分からせてもろうて、皆さんの心も一段一段高めていかなければならんのでございますね。そういう意味合いでです、御霊のお祭りというのは、こよないいわばチャンスでございます。一番真心の使い良い事でございます。
 一番身近な事でございますから、先祖のね。根が豊かにならずして、私共の家が私共が豊かになるはずがありません。根が枯れて上が生きとるという、話は聞いたことがない。根が生き生きとしてくるね。私は今度の御霊様あの神様への祈願の、祝詞の中にね。御霊様達もどうぞね。生神金光大神取次ぎの道の働きを御霊ながらにも頂き現していくようなおかげを頂きますように、そのためにはどうぞね。肯定することのないまた自分を否定する、することのないね。
 真心素直にその私の言う事を聞いてもらいますようにという願いがあります。いわゆる今の合楽の信心をです、そのまま御霊様にも分かって頂きたいという私の願いでございますけれどもね。皆さんも現在頂いておられる信心を御霊様にお送りできれる、祖先讃詞を奏上させてもらうというのは御霊様に通う一つの道である。自分の頂いておる有り難い御教えをです、御霊の前にそれをお話をするようにね。
 聞いてもらうと言う事も、これは御霊様への経文と言う事にもなりゃあね。大祓いをあげるのと同じような事にもなるのでございます。そういう意味での今日は、お祭りをご一緒に奉仕したいと思います。どうぞ万事お繰り合わせを頂いて、どうぞもう本当にもう一家をあげて、出来ればね。お祭りをお参りをさせて頂いて、玉串の一つも奉らせて頂こうという気になっておかげを頂かれたらいいですね。
   どうぞ。